記録されるという罰について

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焦りから始まった

このサイトを開設したのは、ChatGPTの登場に驚いたからだった。
AIが文章を書く時代がやってきた。予測よりもずっと早く。
そのとき私は、何か記録しておかなければという衝動に駆られた。
けれど、人間の衝動というのは長続きしないもので、結局、私は何も書かずに数年が経った。

「せめて最初の一文くらいは残そう」と思っていたことも、すでに忘れていた。
だが、記録は忘れない。

黒歴史に再会する方法

久しぶりにサイトにログインし、ふと昔のブログのことを思い出した。
十年以上前の、あの時代。
SNSがまだ一般的でなかった頃、多くの人が匿名でブログを書き、ネットのどこかに自分の小さな世界を持っていた。
当然、私にも黒歴史がある。

そしてその記録が、いまだにインターネット上で公開されていることを知ったのは、「ウェイバックマシーン」という存在を通してだった。
過去のウェブページを保存し続ける、あの巨大なアーカイブである。

忘れられることが許されない

「忘れられる権利」という言葉がある。
十年ほど前、欧州で注目された考え方だ。
人は、自分に関する古い情報を検索エンジンなどから削除してもらう権利があるべきだ、とする主張である。

けれど現代では、情報があまりにも簡単に、広範囲に、永続的に記録されてしまう。
一度ネットに載せれば、完全に消すことは難しい。
皮肉なことに、「忘れられる権利」は今や、記憶より先に忘れ去られたのかもしれない。

刑罰としての記録

古代ローマには、「ダムナティオ・メモリアエ」という制度があった。
国家にとって不都合な人物は、石碑や記録から名前を削除され、歴史から追放された。(とはいえなんだかんだ記録は残っている)

だが現代では、記録は消えない。
逆に、「忘れてもらえないこと」が罰になる。
過去の発言が掘り返され、時を超えて炎上し、社会的な制裁が与えられる。
文脈も当時の空気も無視され、記録された文字列だけが、個人を裁く材料となる。

笑われればまだマシだ

ネットの冗談として処理されるなら、まだ救いはある。
“黒歴史”として笑われることは、少なくともその出来事に一種の距離感を生むからだ。

しかし、ネット社会には笑い飛ばさずに断罪する空気がある。
まるで一文の誤りを、人格の全否定に結びつけようとするような熱意で。

データの削除は可能か

ウェイバックマシーンには、削除申請の方法がある。
だがそれには、正当なサイト管理者であることの証明が必要だ。(証明しても厳しいが)

パスワードは失われ、メールアドレスも消え、アクセス手段も残っていない。
あるのは、かつて私が残した、恥ずかしい文章の記録だけ。
それを消すことはもうできない。
忘れられたいが、忘れられない。

それでも、記録には意味がある

記録されることが罰である時代に、それでも私は文章を残すことを選ぶ。
記録とは、恥の蓄積であると同時に、存在の痕跡でもある。
たとえそれが誰にも読まれず、無視され、後年になって偶然見つかるだけだとしても。

古代の落書きが、現代の研究に役立つように。
私たちの黒歴史もまた、未来の誰かの手がかりになる可能性がある。

それならば、少しくらいは希望を持ってもいいだろう。

終わりに

記録があるということは、存在していたということだ。
そして存在したことは、たとえ恥ずかしくとも、消してしまうには惜しいものかもしれない。

人は忘れるが、記録は忘れない。
ならばせめて、その記録が赦しと知見の材料になるように、祈るしかない。

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